そこにあることで成立するダジャレたち
きらめくダジャレのマスターピースの中には、そこにあるというだけで成立するものがある。
例えば名作ダジャレ『アルミ缶の上にあるミカン』。多くの方が知っているダジャレだと思うが、実際その状態を目にしたことのある人は少ないだろう。冷静に振り返ると意外に現実生活で目にすることのない状態である。
イマジネーションとしてのみ成立していたこのダジャレを現実に再現してみた。どうだろうか。
いや、どうだろうかと問うてはみたが、そう聞かれても困るだろう。ミカン、そしてアルミ缶がそこにある、としか言うことができない。
特にこれといった感動はない。
同様のことは『レモンの入れもん』にも言える。ただそこにあるという感じ。
ダジャレに対して否定的な見方をする人たちは、時に『つまらないダジャレを言うな』といったことを口にするようだが、これはあくまで現実。有無を言わせない存在としてそこにある。レモンの入れもん、レモンの入れもん、と意味なく連呼してやりこめたい。
そこにあるだけで成立という意味では、『プリンがたっぷりん』も当てはまる。
スーパーに行けば普通に遭遇する状況であるこのダジャレ。つい見過ごしがちであるのは、ダジャレというものはそれを見出そうという心があって初めて成立するということを逆説的に教えてくれる。
それだけに『たっぷりん』という言い回しにわざとらしさがあるのは惜しい。そうした意味でも、前述の2つのダジャレに比べると、スター性という部分で劣ると言わざるを得ない。
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